リアリティ・トランスフォーマー
トランスフォーマー/TRANSFORMERS(2007)監督:Michael Bay マイケル・ベイ出演:Shia Labeouf シャイア・ラブーフ 他
今回、特別企画
「父娘批評対決!」により、映画評論家でもある管理人の父、
松下正己といつもの管理人、松下藍がそれぞれ「トランスフォーマー」について書いています。ちなみに、対決というのはちょっとかっこいいからつけただけで深い意味はありません。
★こちらは松下正己の寄稿記事になります。
松下藍(いつもの人)の記事はコチラ↓
「トランスフォーマー」 by 松下藍
【注意】
この記事にはネタバレ表現が含まれています。
鑑賞予定の方の閲覧はご注意ください。
映画『トランスフォーマー』は、玩具をキャラクターとしたアメリカのTVアニメを基につくられた作品である。目的意識を持った変身する巨大ロボットが善と悪の戦いを繰り広げるという物語そのものは、それ故にか、徹底的に(かつ意図的に)荒唐無稽である。しかし、にも関わらずスクリーンは逆に、圧倒的なリアリティに満たされている。この異様なアンビヴァレンツこそが、この作品のユニークな特質である。
スクリーン上にもうひとつの世界の眺めを構築するために、映画は、その創成期から特殊効果を頻繁に用いてきた。映画内世界はその全てが仮設されたものだから、観客が信じられる統一された世界であるために特殊効果を用いることは、映画の必然でもあった。コンピュータグラフィックスの急速な発達によって、近年では、殆ど想像し得るどのような映画内世界であっても、それを構築することが可能である。
しかし特殊効果は、あくまでも映画によって語られる物語のリアリティを補完するものでなければならない。観客が納得できる映画内世界を前提として、その世界に生きる人間による、納得できる物語が描かれなければならないのだ。観客自身が生きる世界と等価に見えるパースペクティヴを持った世界があればこそ、観客は登場人物に自己を委ね、自己を投射し、そうすることによって登場人物と同一化して、ほんのわずかな時間映画内世界に生き、その物語を体験する。それが、映画を観る、ということである。
この作品でも、当然観客は主人公の青年やその父親やガールフレンドなどに自己を投射することになる。ところがもともとそれ程複雑な性格やパーソナリティを要請されていないために、登場人物の人間性は徐々に物語から排除されていってしまう。いつの間にか物語の主人公は、ふたつの陣営にわかれて戦う巨大ロボットの方になってしまうからだ。登場人物たちの思考と行動は事態が進行するにつれて、どんどんロボットのようになっていき、それと反比例するかのように、巨大ロボットたちは感情をむき出しにして敵に向かっていく。確かに、かつてこのような意志を持つ巨大ロボットが、これ程までにリアルに表現されたことはなかった。
この作品では、リアルであるべきものがリアルではなく、リアルではないものがよりリアルに描かれているのである。
クライマックスの大都会の街路で繰り広げられるロボット同士の戦いは、圧倒的な迫力をもってスクリーン上に展開する。しかしその戦闘からあわてふためいて逃げ惑う人々は、既に観客が同一化するべき存在としては描かれていない。だからといって変身を繰り返す巨大ロボットは、自己を委ねるにはあまりにも異質な存在としてある(単にロボットというだけではなく、トラックや戦闘ヘリから変身するのだ。その身体感覚をトレースすることなどできない)。もはやそこには、観客が生きる場所はないのだ。にもかかわらず奇妙なことに、観客はそのスペクタクルを楽しむことができる。
物語とその世界、人間とロボット、自己同一化の可能性と不可能性、こうした幾つもの複雑に錯綜した二律背反こそが、この作品をユニークなものにしているのであり、それを可能にしたのが、最新の技術による特殊効果であった。
何よりも先ず機械技術である映画が進化し続けてきた結果としての、現在の時点におけるひとつの新しいかたちが、ここにある。
2008/02/04
CINEMA
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