無味無臭の書き割り世界には、唯一残された目新しさも、ドラマすらも存在しない
スリーハンドレッド/300(2007)監督:Zack Snyder ザック・スナイダー出演:Gerald Butler ジェラルド・バトラー 他
【注意】
この記事にはネタバレ表現が含まれています。
鑑賞予定の方の閲覧はご注意ください。
もはや映画ではない。アニメでもないし、漫画でも勿論ない。じゃあこれは一体何なのだろう。
この余りある疎外感は。
アメリカのカルト的漫画家、フランク・ミラーの原作コミックを、ジョージ・A・ロメロの傑作「ゾンビ」のリメイク作品「ドーン・オブ・ザ・デッド」を監督し、「走るゾンビ」等の斬新な演出とスタイリッシュな映像表現で一躍有名になったザック・スナイダーが完全映像化。フランク・ミラーの名は、最近
「プラネット・テラー」も公開中のロバート・ロドリゲスの意欲作
「シン・シティ」の原作/共同監督も務めたことから既知の方も多いだろう。
舞台は紀元前480年のギリシャ、その中でも厳格な規律と教育で精鋭の軍を誇る都市国家スパルタから物語は始まる。ちなみにこのスパルタ、現在の「スパルタ教育」等の語源であることは言うまでもない。
そのスパルタへ、ギリシャへ侵攻中のペルシア軍へ服従せよとの使いが現れた。だが、国王レオニダスはこれを拒否、使いを切り捨ててしまう。もはや小国家スパルタがペルシアに滅ぼされるのも時間の問題。だが、王さえも従わざるを得ない託宣により、対ペルシアへの出兵は禁止されてしまう。それでもレオニダスは、護衛と称したたった300人のみの兵士を連れ、100万を越すペルシア軍に立ち向かってゆくのだった。国を、民を、愛する者を守るために。
とまあ、ストーリーはざっくり書くとこんな感じ。要するに国や王に忠誠を誓った精鋭の兵士たちが、自分たちの愛するものを守るため、勝ち目のない戦いに挑んで華々しく散ってゆくけれどもそれが結局ギリシャ全土を感動させ動かし、最後ペルシア軍に打ち勝つという、男気溢れる熱く悲しい物語なわけだ。単純明快である。(ちなみにペルシアに打ち勝つくだりまでは映画内では描写されていないが、伝説ではそうなっている)
先に言っておくと、自分は女だがそういった男気溢れる物語は大好物である。が、しかし。この映画の重たく冷え切った感じは何なのだろう。語ろうとしているものは、熱い。だがその立ち昇るような熱気が一切伝わって来ないのだ。
答えは簡単。伝えようという努力が一切見受けられない。この映画が努力していることはただひとつ。「いかにフランク・ミラーの原作どおりに映像化するか」それだけなのである。
映画の基礎にはドラマがある。これは当然のことだ。そしてドラマを紡ぐ為には人間の感情、特に感情の動きが必要不可欠だ。さらに映画として成立させる為には、それをより直截的に観客に伝えなくてはならない。まるでその場に、その人物になりきっているかのように。だが観客は映画を観始めたとき、まだ映画の外にいる。映画館の座席にどっかりと座り、ポップコーンを頬張って画面を漠然と眺めているだけの観客を、いかにその映画のなかに引き込むか。ポップコーンを食べるのを忘れて映画世界に没頭し、恋人と引き離され涙し、ナイフで切りつけられ痛みを感じる。それをいかにやってのけるかが結局その映画の映画たる力であり、映画として存在する理由なのだ。逆を返せば、それが成立していない映画は、どんなに映像が美麗でも、どんなに最新のVFXを駆使していても、どんなに金がかかっていようがいまいが、決して映画ではない。
この作品は、その時点で既に映画ではなかった。
まず、人物描写がおざなりなことこのうえない。弱みを見せず、毅然とした態度で立ち向かってゆくレオニダスは、実際ならかなりかっこいい筈なのに、全くかっこよさを感じられない。むしろ、一致団結し敵を倒し国を守ることだけ考えているスパルタ軍一同はまるでロボットのようである。何故か。この映画はその「かっこいい(と思われる)」一面からしかそれぞれのキャラクターを描写していないからである。元来人間というものはもっと複雑であり、ひとつの側面からでは描ききれるものではない。それを多面的に描くことが物語の醍醐味であり、もっと言えばその描きかたこそ「映画の文法」が生かされる場なのだ。だが多面性を放棄された人物像はその名の通り「厚み」がなく、紙のように薄っぺらなキャラクターには当然観客が入り込む余地はない。そして多面性を放棄し映画の文法までも放棄した挙句カット割までもがおざなりになり、「その人物のその気持ち」を描写する為のカット割ではなく「そのカット」を構成する為の人物、といった本末転倒な事態に陥ってしまっている。
そういった置物のような構図を無理矢理見せようと不自然なカット繋ぎを繰り返した為、時には唐突なシークエンスの切り替わりや、即物的なカットの連続になり、映画というより紙芝居を見ているような気分になってくる。ストーリーにのめり込める分、紙芝居のほうがよっぽどましだが。それぞれのカットを静止画として切り出せば、まるで一枚の絵のように秀麗なのだが、それならフィルムブックで充分だ。映画とは、カットの集合体そのものであり、必ずしも1カット1カットが完成されている必要はないのだ。
そのせいで、この映画の見所のひとつである戦闘シーンに於いても、スピード感や高揚感は全く感じられない。本来ならそういったシーンは見せ場であるからしていかに迫力を出そうかと努力するものだが、どうやら迫力は二の次らしい。ここに於いてもカット割で臨場感を演出するのではなく、一枚絵としていかに成立しているかを最優先しているのが見てとれる。
スローモーションを多用された戦闘シーンに迫力は皆無であり、どちらかというとPVを見ているようだ。個人的にスローモーションは(余程うまくいっているものを除いて)嫌いなのだが、その理由は、音から得るリアリティが激減するからだ。映画は画だけあればいいというものではなく、音がそのウェイトの半分を占める程重要である。そして、スローモーションにするということはそれに付随する音もスローになる筈であり、また、実際の生活で周囲をスローに感じることは滅多にないから、結果として普段あまり感じない状況を表現しなくてはならないことになる。この方法論でもってリアルに感じさせる音響効果をつけなくてはならないということはかなり困難だ。それを配慮したうえでのスローモーションならいい。だが、結果として迫力を大幅に減少し、どちらかというと「オシャレ感」ばかりが残るこの映画の場合、成功しているとは到底思えない。
また、大軍同士のぶつかり合いの戦闘シーンの場合、観客に現在の戦況を理解させ、と同時に主要キャラクターたちが同時進行でどのような動きをしているかをいかに解らせるかによって、断然のめり込めり方が変わってくる。そこの成否でもってそのシーンの臨場感の有無、更に言えばその映画の出来不出来が左右されると言っても過言ではない。その為にも考え抜かれたカット割というものは不可欠だ。わかり易い例で言えば、リドリー・スコットの映画や「ロード・オブ・ザ・リング」なんかを思い浮かべれば、いかに秀逸にそこが描かれているかがわかるだろう。だが、そういった工夫もこの映画からは感じられない。戦闘シーンがメインの映画なのではないのだろうか。そこにまで入れ込めないとは。残念を通り越して愕然とする。
もうひとつのこの映画の売りであろう、原作に忠実過ぎるほど忠実に、CGを駆使し徹底してつくり込まれた映像は確かに美麗だ。だが、フランク・ミラーのアーティスティックで魅力的な世界を映像に起こしたという点では、前述した「シン・シティ」でロドリゲスが既にやっている。つまり唯一の売りであると思われる美麗な映像表現ですら、二番煎じでしかないのだ。更に言ってしまうと、「映画でない」と監督自ら言い切り、またスタイリッシュな現代劇の3部構成である「シン・シティ」のほうが、その特殊な表現方法と内容がマッチしている。オシャレでクールな「シン・シティ」なら、映像だけで魅せるやり方もまあ許せるが、熱い男気を描いた「300」で、映像だけで魅せようというのは所詮無理があるということだ。
また、その特異な世界観を忠実に再現しようとし過ぎたせいか、まるでその世界にリアリティがない。劇中で多用される手前に人物、奥に絵画のような風景、といった構図は、良く言えば舞台のようであり、正直に言えばただの書き割りだ。漫画そのままに表現された計算のかけらもないカット割からは奥行き感が一切感じられず、人物が立っている地面には隆起が一切なく、最新の3Dが駆使されているとはとても思えない2Dっぽさ、箱庭っぽさを感じさせる。
また、戦闘シーンでは敵兵の首や手足が飛んだり、惨殺された村人の死体でつくられた大木があったり、それなりに残虐なシーンがあるのだが、まるで痛みや不快感を感じない、つまりリアルに感じられないのだ。これ程リアリティを感じない映画も珍しい。
このリアリティのなさは敵兵でつくった壁、つまり死体をうずたかく積み上げた壁のシーンでピークを迎える。冷静に考えれば、幾ら死んですぐだと言っても、膨大な量の死体は物凄い腐臭を発しているわけであり、南極でもない限り蝿がたかり、蛆が湧き、鳥が腐肉を貪っているのが普通であろう。だが、そこには群を成す蝿もおらず、兵士たちは淡々と死体を積み上げている。お前ら、鼻がないのか!とつい言いたくなってしまう。百歩譲ってスパルタの兵士は匂いなんかに気圧されないとしても、それを観ている観客はただの人だ。その観客にすら、鼻が詰まったかのように匂いを感じさせない。無臭。それがこの映画に感じた一番の印象だ。除菌処理され徹底的に消毒された映画。そんなものにどうやってリアリティを感じ、感情移入しろと言うのだろう。
はなからリアリティは求めていないのかも知れない。だが、それを推し量って観ても、この映画は観客を突き放す。疎外感を感じさせる。
一貫した物語、感情の流れというものがなく、ブツ切りにされたシークエンスをどんどん目の前に放置されていくような構成では、観ている側は手の出しようがない。観客の映画への参加を促す要素が何ひとつないのだ。観客に参加する余地がない、それは、この映画が訴えたいものが何ひとつ伝わって来ないことと同義である。そしてそれはそれを感じとれない観客のせいではない。感じさせるためには、映画として、ある程度のサービス精神が必要なのだ。そのサービス精神を怠っている映画は、どんな映画であろうと、結局「面白くない」という一言に回帰するだろう。
秀麗で豪華で金のかかった映像美を見せたいだけなら、幾らでも他の方法がある。それはあくまで手段でなければならない。それを目的にするなら、もはやそれは映画ではない。
2007/10/06
CINEMA ・
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